フランス調理師協会について
協会の歴史

LA MUTUELLE DES CUISINIERS DE FRANCE (旧Société des Cuisiniers de Paris)

私達の協会は1840年に、フランスの最後の国王Louis-Philippeの時代に誕生した。1784年から1787年、パリはまだ小さな一都市に過ぎず、長さ23km・高さ3.30mの石壁に囲まれており、その壁は「徴税請負人の壁」と呼ばれていた。

「Ferme」とは徴税官が間接税を徴収する徴税制度で、この徴税官は国と6年間の賃貸借契約をし、請負額を支払う代わりにその残りの金額を自分の利益とする事が認められていた。実際にこの「壁」は60枚の扉が付けられた徴税の壁と呼ばれており、多くの商品を中心地へ運ぶ為にはこの門で税金を支払わなければならなかった。徴税請負人はこの門で多くの富を得たが、フランス革命によって、過剰であると判断された彼等の財産は押収され、徴税請負人の多くは化学者のLavoisierのように処刑された。

その当時のパリはまだ近代的ではなく、交通路が限られていた。
右岸:Bercy通り、Reuilly通り、Picpus通り、Charonne通り、Mènilmontant通り、Belleville通り、la Villette通り、la Chapelle通り、Rochechouart通り、Clichy通り、Batignolles通り、Courcelles通り、Wagram通り、Champs-Elysées通りに交わるTilsitt rejoignant通りの一部、Kléber通りに交わるPresbourg通りの一部、Kléber通り、Franklin通り、Beethoven通り 左岸:Grenelle通り、Garibaldi通り、Pasteur通り、Vaugirard通り、Edgar Quinet通り、Raspail通り、Saint-Jacques通り、Auguste Blanqui通り、Vincent Auriol通り

当時の中心地の人口は、作家達の言うところによると、多かれ少なかれ60万人と見積もられている。道は狭く、電灯もない上に大変汚かった。
どんな職業でも厳しい条件を強いられた。都市での仕事は無く、道具や機器も進歩せず、出来たのは数kmの鉄道だけだった。
仕事は職業斡旋所によって管理されており、斡旋員達は彼等の手助けを求める人々から金を取って贅沢に暮らし、彼等にはかろうじて家族を養える程の金しか残さない程であった。

数人の料理人は、仕事の現場での衛生面(多くのキッチンがまだ、風通しの為の換気窓がたった一つあるだけの地下倉庫にあった)や、病気、事故、失業の際の援助等の初期段階の権利得る為に早急に団結する必要があると考え、1840年7月20日に協会を設立した。1841年11月5日、彼等は協会に規則を設ける。1841年1月20日、Armant Hardy氏が最初の会長に選ばれる。相互扶助の精神は、仕事の中に見出される。

しかし生活は苦しかった。仕事を得るチャンスがある会員も既に会費を払うのが非常に困難であり、仕事がない会員が会費を払う事は完全に不可能だった。最初の盛り上がり(初年度以降1085人の会員申し込み)にも拘わらず、基盤が無くなってしまったので、当時の問題を解決する為にマネージャーのSaussay氏を残し、協会は解散を余儀なくされた。

協会の創設者は負けと考えている事をしぶしぶ認めた。自分達を敗者と認めるという事は、もはや希望が持てないという事であり、創設者達は規則改訂という最初の任務を成し遂げる為に「COMITE CENTRAL DE GESTION」を設立する事を決定した。

1844年2月2日、会費は月々1.50フランになり、それに加えて各会員は決算の為に3回5フランを支払う事になった。

同年6月9日、会費を期日に払っていない会員全員を名簿から削除し、役員会のメンバーについては理由を提示せずに会議に欠席した場合、罰金2フラン(この時代では莫大な金額だった)の罰則が課せられる事が決定される。
このような厳格化により、成果が上がった。1845年「SECOURS MUTUEL」の創立計画が可能になる。協会(所在地:Halles地区8, rue des Prouvaires)は、「SOCIETE DES CUISINIERS DE PARIS」と名付けられた。1846年7月27日、預金口座を開設し、1,000フランを預金する。

1848年9月30日に本部の仕事を終了させ、12月10日に以前の「SOCIETE DES CUISINIERS」の名称を復活させる。

12月10日、Louis-Napoléon Bonaparte皇子が第二共和政の大統領に選ばれる。彼はCavaignac, Ledru-Rollin, Raspail, Lamartine, Changarnier等を打ち負かした。1849年5月25日、国民が改善を要求する権利があるとして立法議会が設置される。

不幸な事に、6月よりパリでコレラが流行し始める。流行が終わるまで、一日の死者の平均は600人、9月時点での合計は19,184人に達した。

役員会は9月28日、第二共和制の大統領が「RECONNAISSANCE OFFICIELLE DE LA SOCIETE DE PLACEMENT ET DE SECOURS MUTUELS」にサインした事が記載された警視総監の書面を確認し、公式に承認される。


   

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